プロダクションノート

05.そして完成

映画の撮影は2014年5月から6月にかけて行われた。

梅雨の時期、限られた撮影日数のなかで、天候だけが気がかりだった。

しかし、映画の神様が微笑んでくれたのか、撮影日程中、飛騨高山は快晴が続き、真夏のような暑さの中、撮影は進んでいった。ストーリー上、雨を降らせるシーンが1日あったが、その日のみ雨が降るという恵まれた天候での撮影だった。

 

キャスト陣、スタッフ陣により、全シーン、1カット、1カットに魂を込めて、作品に命が吹き込まれていった。

そして2014年6月7日、すべての撮影を終えて無事にクランクアップした。

 

編集作業が始まった2014年の夏、急ピッチで編集作業を進める監督のもとに、映画の挿入曲と主題歌の楽曲が届いた。

今回、劇中の挿入曲はピアニストとしてだけではなく、作曲家、俳優とマルチな才能を発揮している清塚信也が、

そして主題歌には、持田香織が決定していた。

 

飛騨高山の美しい映像に加えて、清塚信也による音楽が、心の琴線に触れる。

エンドロールでは、持田香織の澄んだ切ない歌声が、よりいっそう映画の余韻を心に刻む。

 

こうして、映画『ポプラの秋』は約3年の歳月をかけて、ようやく完成したのだった。

 

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04.ポプラ荘とポプラの木

映画の舞台が飛騨高山に決定した後、次にスタッフを悩ませたのは、“原作に描かれている「ポプラ荘」の建物と、中庭に立つ大きな「ポプラの木」をどのように用意するか?”という課題だった。
スタッフ総出で何度もロケハンを重ねる中で、1か月程かけて、ようやく今回の舞台となった「ポプラ荘」を発見。高山市内で民家(大家のおばあさんの住居)と、隣接したアパート(ポプラ荘)が奇跡的に見つかり、なんと、どちらも近い将来取り壊す予定となっていた建物であった。
多くの関係者にもご協力を頂き、民家とアパートを隔てる“塀”を取り壊して、中庭を作ることに成功。その中庭に立つ大きな「ポプラの木」は、原作のイメージにぴったりとあう木を探し回って、遠くからトラックで運び移植を行うこととなった。こうして、まるでセットかと思うような奇跡的なロケーションを用意することができたのである。
季節は、2014年 春。高山にはすでに暖かな風が吹いていた。
新しい場所で新しい命を与えられた「ポプラの木」は、主要キャストとして映画に命を与えていく・・・。

・・・撮影後、「ポプラ荘」は取り壊されてしまったが、「ポプラの木」は別の場所へ再移植され、今でも元気に飛騨高山の風景を見つめている。


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03.美しい飛騨高山と幸せを呼ぶさるぼぼ

映画の舞台となる「ポプラ荘」は、原作では地名は記されておらず、どこかの町の設定だが
“日本の美しい原風景が映し出せる場所が良い”というプロデューサー陣の想いを元に、ロケハンを重ねた結果、
映画の舞台は飛騨高山に決まった。
小京都と称される飛騨高山は、日本の観光地を格付けしたミシュラン・グリーンガイド・ジャパンで、最高の三つ星を獲得している。
母・つかさの後について知らない町を歩き続ける千秋は、鍛冶橋や古い町屋造りの家々、赤い中橋など
飛騨高山の名所を通っていく。
映画の中に登場する美しい風景だけではなく、飛騨高山を象徴するもう一つのアイテムが「さるぼぼ」。
「さるぼぼ」とは、さるの赤ん坊(飛騨弁で「ぼぼ=赤ん坊」)のことを指す。
もともとこの地方で、母親が子供の幸せを願って作った人形だという。
飛騨地方のお土産として赤い人形はよく知られているが、「さるぼぼ」は映画の中でも重要なアイテムとなっている。

さるぼぼ

 

02.主人公千秋が決まるまで

あらためて一からスタートとなった映画化は、再びプロデューサー陣を悩ませた。
本作『ポプラの秋』の主役を大人になった千秋にするか?子ども時代の少女千秋にするか?
この映画の核となる部分が最大の課題であった。
もう一度原点に戻り、原作を読み返し、それぞれの意見を持ち寄った。焦りと悩みが拡大していき、
誰もが納得する答えを導き出せないまま時間が過ぎて行った。
原作に忠実に描くとすれば、子ども時代の千秋を主役にするのがベストの選択ではあるが、
この文芸作品の主役をはれる演技力をもつ、新鮮な子役=女優がいるかという問題が大きかった。

そんな時、たまたま某ドラマを観ていた製作統括プロデューサーが叫んだ!
“主役は子どもの千秋。主演・本田望結!”
ドラマに出演していた本田望結の演技を観て、“この子に賭けよう!この子しかいない!”と強く感じ、迷いは払拭された。
第2の運命的な出会いだったのかもしれない。

こうして、監督が決定し、主役に本田望結、共演陣には中村玉緒、大塚寧々、村川絵梨、
藤田朋子、宮川一朗太、山口いづみ、内藤剛志・・・
というそうそうたる顔ぶれの演技派俳優が加わり、本格的に「ポプラの秋」の映画化が動きだした。
ようやく脚本化が進み始めたころ、カレンダーの表示はすでに2014年に変わっていた・・・。

 

01.プロデューサーと監督との運命的な出会い

湯本香樹実原作『ポプラの秋』(新潮文庫刊)の映画化の企画が始動したのは2012年9月
それから、映画公開まで約3年の歳月がかかった。
原作に惚れ込んでいた製作統括プロデューサーが、「原作に出来る限り忠実に、そして作品を深く理解し、
登場人物の心象を映像の力で描き出す」ことに重点を置き、取り掛かった「ポプラの秋」映画化プロジェクト。
だが、様々な要因から難航し、「ポプラの秋」映画化は一時、暗礁に乗り上げるほどだった。

2013年8月。
製作統括プロデューサーと大森研一監督との運命的な出会いから、再び歯車が動き出した。
プロジェクトが始動してから既に1年が過ぎていた。
プロデューサーと大森監督が出会ったのは渋谷の喫茶店。
「ポプラの秋」映画化における意向を伝えると、大森監督は「この小説は学生時代に出会い、
その時、将来映画監督になった折には、必ず自分が撮る、と決めていた作品です!」と、
大声で語りだし、ぼろぼろになった「ポプラの秋」の原作本をカバンの中から取り出したのだった。

今まで幾度となく読み返し、“一字一句暗記している大好きな小説”
作品について、涙ながらに熱く語る大森監督と、それに頷く製作統括プロデューサーの姿は、
周りから見たら異様な光景だったのかもしれない。

「原作の持つ良さ、強さを最大限に活かして、失って初めてその価値に気づく人間同士の繋がりと、
今ある人への感謝の気持ちを丁寧に描きたいと思います」と語る大森監督に、
製作統括プロデューサーは、「赤い糸ってあるかもしれないね」と笑いながら語り合った。

製作統括プロデューサーと監督との運命的な出会いを経て、 「ポプラの秋」映画化プロジェクトがまさに再始動した瞬間だった。